観点を手離せないとまずい!!
みなさん、こんにちは!
まだ5月というものの、すでに夏のような日差しに感じられますね
さて、前回、「 自分の観点を手離せなくて共有共感できないことに危機感を持った 」ということを書きましたが、その翌日、まさにこの危機感が現実化した出来事がありました
友人から仕事上トラブルがあって大変なんだという話を聞いていた ときのこと
友人はあるプロジェクトの運営を担っているのですが、 仲間の人がプロジェクトの内容をよく理解しておらず、 先方とトラブルを起こしてしまったそうです
先方とやりとりするときの姿勢態度の問題、 トラブルになりそうというときに相談がなかったこと、 そもそもプロジェクトに対する理解や情報収集の甘さなど、 様々な条件が重なって起きてしまったことのようでした
これに対して、友人は、 仲間のスタンスやプロジェクトに対する理解の弱さに「 どういうつもりだ!」という憤りが出てくる一方、 必要な情報が伝達し切れていない、 一元化されていないなど運営側の問題も感じていて、 そのジレンマでイライラしていました
ここで、もし私が自分の観点をゼロ化して話を聞くことができていれば
友人のマインドーム(判断基準) からどういう考え感情が出てきているのかを理解できた のですが
問題は、私が自分の観点を持ったまま、 友人の話を聞いてしまったことです
それで、 話を聞いているうちに私自身が次第にモヤモヤと気持ち悪さを感じ てくるし、友人の話し方にまでイライラしてくる始末
そうなってくると、友人にかける言葉も見つからず、 友人もどうしようもなくてイライラがマックスに
友人は怒りの矛先をモノに向けるしかなく、 ペンを折ってしまいました
それを見た私はというと、 いつも感情をモノにぶつけていた父の姿とオーバーラップしてしま って、腹が立つ腹が立つ
もう話なんか聞いてられないと、 険悪な雰囲気のまま別れることになってしまいました
あとから友人に話を聞くと、 トラブルをどうにかして欲しいとかイライラをぶつけたいというこ とでは全くなくて、 ただ自分のイライラや怒りを理解してほしいという状況だったそう です
そうだったのか・・・
自分の観点を持った状態
=5感覚で得た情報のみを自分の判断基準の篩にかけて、 勝手な解析で相手を審判・判断している状態
人間が当たり前にやっているこの状態がなぜ危機なのか
今回のことで、 身をもって危機感を感じることができました
絶対観点から自由になって、共感共有できるようになるぞー!!
本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました☆